“敏感すぎる体”と生きてきた私の話

生まれつきなのか、あとからなのか。
私の体は、いつからか“敏感すぎる体”になっていた。

気づけば、音や匂い、人の気配すら、  

私にとっては「刺激」になっていたのです。

それはやがて、生活に支障をきたすほどの感度になり、
生きづらさとして現れるようになった――

今回は、そんな体と共に歩んできた日々の記録です。

目次

最初に気づいたのは「人」だった

まず最初に、自分が“敏感すぎる”と気づいたのは「人」でした。
これは以前の投稿でも触れましたが、私は人の空気や気配、感情、視線
過敏に感じ取ってしまいます。

その“気づいてしまう”ということ自体が、強いストレスになります
そして、気づいてしまったがゆえに、
空気を読んで、反応し、対応しなければならない――。
そんな無意識の義務感や責任感が、常にのしかかってきました。

音が“刺さる”ように感じる感覚

「音」と「匂い」も、同じ頃から気になるようになりました。
音に関しては、単純に大きな音だけではなく、
汚い音・甲高い声・騒がしい会話・不快な話し方など、
私の中で強いストレス源になっていました。

もちろん、音に敏感な人は他にもいるでしょう。
でも私の場合は、“嫌だ”を通り越して、体と心に明確なダメージを感じるのです
そのストレスは一過性ではなく、どんどん蓄積し、心身に異常を引き起こすレベルにまで達します。

日常を脅かす「匂い」の苦しさ

そして最も深刻なのが、「嗅覚」でした。
これは私にとって、
日常生活を脅かす最大の要因です

嫌な匂いはさまざまありますが、私の場合はどんな匂いにも、過敏に反応してしまいます。
ときには、“知らなくてもいいこと”“知りたくなかった現実”まで匂いから察してしまうこともある。
人の匂いにも過敏で、それが人間関係そのものへのダメージになることさえあります。

名前のつかない“敏感さ”と、その代償

他にも、言葉にできないような「敏感」がこの体を蝕んでいて、
日々、生きづらさの影のように背中に張り付いている感覚があります。

そしてそれらの感覚は、経験を重ねるほどに鋭くなり、自分では制御できなくなっていきました。
一番の問題は、敏感であるがゆえに“情報”を強制的に受け取ってしまうこと。
そしてその情報に、心が縛られてしまうことなのです。

「HSP」という存在

後になって、「HSP」という言葉を知りました。
私が感じてきたことと、重なる部分がいくつかあると感じています。

ただ、私自身がHSPかどうかを知ることには、あまり興味がありません。
自分の感覚は、名前がつくことで楽になるものでもない気がしているからです。

それでも、HSPという言葉に安心を感じている人たちや、
同じような生きづらさを抱える人たちがいることには、少し関心があります。

そういった人たちと、どこかで気持ちを交わせたら——
そんなふうに思うことは、今もときどきあります。

普通から遠ざかっても、願うもの

私にできることは、
そうした「感じてしまう状況」から、少しでも距離を取ること。

でもそれは同時に、“普通の生活”から遠ざかっていくことでもあります。
人と関わる、外に出る、匂いや音に囲まれる――
そうした日常のすべてが、少しずつ自分を削っていくように感じる。

それでも私は、
いつかこの感覚と調和できる日が来ることを、どこかで願って生きています。

もしあなたにも、似た感覚があるなら
同じような感覚を抱えている人は、きっと他にもいるはずです。
小さな共感でも、何か感じることがあれば、ぜひ残してください。

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