「人になりたい」と思った私

「人になりたい」と思った私というタイトルが中央に配置された、落ち着いた配色のブログ記事アイキャッチ画像。しのぶの備忘録シリーズ。

私はいつしか、「人になりたい」と思うようになっていました。

私にとって苦しいと感じることを、普通の人はなんとも思わない。

恐怖を恐怖として感じない。

できない事をたやすくできてしまう。

私はずっと、劣等感を抱きながら生きてきました。

「私も、あんなふうになれたら」
そう願って、他人の姿ばかりを見ていた――。

目次

劣等感と憧れが始まった日

いじめを受けていた私は、
引っ越しをきっかけに「自分を変えよう」と思いました。

劣等感や、人への憧れを強く感じるようになったのは、その頃からです。

友達ってどうやって作るの?
みんなは何を話しているんだろう?
そもそも、友達って何?

何もわかりませんでした。

しかも、こうした精神的なことだけではありません。

外で楽しそうに遊ぶ子たちを横目に、
私は基礎疾患のために運動すらできない。

欲しい物があっても、
家が貧しかった私は、何ひとつ買ってもらえませんでした。

精神的にも、身体的にも、
そして家庭環境においても、
何ひとつ「人並み」と呼べるものがなかった。

でも、ここまでなら「よくあること」だったのかもしれません。

──本当の問題は、このあとに起きました。

“人になる”ために始めた努力

最初に抱いた劣等感や憧れを、
私は歪んだ形で“改善”しようとしてしまったのです。

以前投稿した内容に記載しましたが、私は自覚のないまま、相手の思考を読み取っていました。

そこからさらに、現状を変えるため“人を観察する”ようになっていきました。

AさんとBさんの会話。
Aさんが何を話して、Bさんはどう受け取ったのか。
それがCさんだったらどうなるのか。

それを考えて、実際に会話をしてみる。
合っていたこと、間違っていたこと。
それを踏まえて、また観察する。

トライアンドエラーの繰り返し。
それが、私の“人になるための努力”でした。

少しずつ手にした“普通の会話”

少しずつ、「よく話す人」ができていきました。
会話が続くようになり、
ああ、自分の努力は間違ってなかったんだ、と思いました。

嬉しかった。
やっと自分が“普通”に近づけた気がして。

でもそのとき、私はまだ気づいていなかったのです。

自分が、底なしの沼に足を取られはじめていたことに。

沼に沈んでいくことに気づかずに

違和感を感じるようになったのは、数年経ったあとでした。

人の思考を読む精度はどんどん上がり、
スピードも、正確さも、範囲も広がっていった。

それと引き換えに、
他人との会話も少しずつ楽になっていった。

でも──
ときどき、どうしても噛み合わない瞬間が現れるようになりました。

「そんなつもりはなかったのに、相手の機嫌を損ねてしまう」
「ちゃんと考えて返してるのに、なぜか冷たいと言われる」

そしてついに、
私は“感情がない”と言われるようになったのです。

感情を手放していた自分

何もなかった私が、“人になりたい”一心で積み上げた努力。

けれどその努力のベクトルは、確実に間違っていた。

相手の反応を想定し、正解を探し、
“返し方”を頭で組み立てていくうちに──

私は、自分の感情を置き去りにしていた。

その頃、私はまだ自覚がありませんでした。

なぜ「感情がない」と言われたのか、かなりショックを受けました。

でも、今ならわかります。

人の思考に踏み込みすぎることは、時に不快感を与える。
感情ではなく“正解”で返すことは、距離を生む。

あのときの私は、まだ何も知らなかった

けれど、あの頃の私は──
そんなことに気づけるはずもなく、
このあと、新たな問題と向き合うことになるのです。

私はただ、“人になりたかった”。
その考え自体が間違っていたのかもしれません。

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