私はいつしか、「人になりたい」と思うようになっていました。
私にとって苦しいと感じることを、普通の人はなんとも思わない。
恐怖を恐怖として感じない。
できない事をたやすくできてしまう。
私はずっと、劣等感を抱きながら生きてきました。
「私も、あんなふうになれたら」
そう願って、他人の姿ばかりを見ていた――。
劣等感と憧れが始まった日
いじめを受けていた私は、
引っ越しをきっかけに「自分を変えよう」と思いました。
劣等感や、人への憧れを強く感じるようになったのは、その頃からです。
友達ってどうやって作るの?
みんなは何を話しているんだろう?
そもそも、友達って何?
何もわかりませんでした。
しかも、こうした精神的なことだけではありません。
外で楽しそうに遊ぶ子たちを横目に、
私は基礎疾患のために運動すらできない。
欲しい物があっても、
家が貧しかった私は、何ひとつ買ってもらえませんでした。
精神的にも、身体的にも、
そして家庭環境においても、
何ひとつ「人並み」と呼べるものがなかった。
でも、ここまでなら「よくあること」だったのかもしれません。
──本当の問題は、このあとに起きました。
“人になる”ために始めた努力
最初に抱いた劣等感や憧れを、
私は歪んだ形で“改善”しようとしてしまったのです。
以前投稿した内容に記載しましたが、私は自覚のないまま、相手の思考を読み取っていました。
そこからさらに、現状を変えるため“人を観察する”ようになっていきました。
AさんとBさんの会話。
Aさんが何を話して、Bさんはどう受け取ったのか。
それがCさんだったらどうなるのか。
それを考えて、実際に会話をしてみる。
合っていたこと、間違っていたこと。
それを踏まえて、また観察する。
トライアンドエラーの繰り返し。
それが、私の“人になるための努力”でした。
少しずつ手にした“普通の会話”
少しずつ、「よく話す人」ができていきました。
会話が続くようになり、
ああ、自分の努力は間違ってなかったんだ、と思いました。
嬉しかった。
やっと自分が“普通”に近づけた気がして。
でもそのとき、私はまだ気づいていなかったのです。
自分が、底なしの沼に足を取られはじめていたことに。
沼に沈んでいくことに気づかずに
違和感を感じるようになったのは、数年経ったあとでした。
人の思考を読む精度はどんどん上がり、
スピードも、正確さも、範囲も広がっていった。
それと引き換えに、
他人との会話も少しずつ楽になっていった。
でも──
ときどき、どうしても噛み合わない瞬間が現れるようになりました。
「そんなつもりはなかったのに、相手の機嫌を損ねてしまう」
「ちゃんと考えて返してるのに、なぜか冷たいと言われる」
そしてついに、
私は“感情がない”と言われるようになったのです。
感情を手放していた自分
何もなかった私が、“人になりたい”一心で積み上げた努力。
けれどその努力のベクトルは、確実に間違っていた。
相手の反応を想定し、正解を探し、
“返し方”を頭で組み立てていくうちに──
私は、自分の感情を置き去りにしていた。
その頃、私はまだ自覚がありませんでした。
なぜ「感情がない」と言われたのか、かなりショックを受けました。
でも、今ならわかります。
人の思考に踏み込みすぎることは、時に不快感を与える。
感情ではなく“正解”で返すことは、距離を生む。
あのときの私は、まだ何も知らなかった
けれど、あの頃の私は──
そんなことに気づけるはずもなく、
このあと、新たな問題と向き合うことになるのです。
私はただ、“人になりたかった”。
その考え自体が間違っていたのかもしれません。

コメント