「死にたい」
幼い頃から何度も考えた。
実際、死のうとしたことも何回かある。
そんな生活を繰り返して、今、“死”というものに対して
私が思う事。
私の「死にたい」という気持ち
基礎疾患、いじめ、ブラック企業など、いろんな場面で、事あるごとに
「死にたい」と感じていました。
その時によって意味合いは少し変わりますが、
「疲れたから終わりにしたい」というイメージです。
渦中にあるとき、一切停まることは許されず、
延々とマラソンをしている気持ちになります。
しんどくても、のどが渇いても、足が痛くても
休むことは許されません。
ゴールにはいつたどり着けるのか、本当にあるのか。
自分は何のためにこんなことをしているのか、わからなくなります。
生まれてこなければよかったとさえ思っていました。
私が“死ねなかった”理由
常に何か問題が起きていて、そのたびに「死にたい」と感じていた私が、
なぜ、ずっと踏みとどまっているのか。
それは、自分の命を放棄することは、私にとって責任が大きすぎたからです。
以前、私の基礎疾患について書いた記事があります。
そこにも書きましたが、私は幼い頃から基礎疾患を抱えていて、
死に直面することが何度もありました。
生き続けられたのは、母親が自分の人生を犠牲にして守ってくれたからです。
そんな私の命を、私はたやすく放棄することはできませんでした。
どんなにつらくても、走り続けるしかなかったのです。
これは、ポジティブな感情ではなく、
ネガティブな感情としての「義務感」でした。
この経験が足を引っ張って、楽になれない。
そう感じていました。
実際に自殺を試みて、分かったこと
とはいえ、自殺を試みたこともあります。
ふと、本当に死ねるのか。簡単なのか、難しいのか。どんな気持ちになるのか。
そんな好奇心が「死にたい」という気持ちの背中を少し押したのです。
タイミングはバラバラですが、これまでいくつか実行してみました。
これを書いている時点で、死ねていないというのが答えですが、
その過程で、いろいろと分かったことがありました。
まず、「簡単ではない」という事。
人の体は思ったよりも頑丈にできていて、そう簡単には死に直結しないのです。
結構な労力や力が必要で、「面倒くさいな」と感じたのを覚えています。
次に、意外にも“死”に対しての恐怖心はあまりなかったということ。
いざ実行となると死ぬのが怖くてできない。
そうなると思っていたのですが、そこは問題ありませんでした。
最後に、やっぱり命の重みが私にのしかかってくるということ。
この経験を得て、私はどれだけ辛いことがあっても
死ぬという選択肢は取れないのだと気づいたのです。
現在の「死にたい」という気持ち
今になっても「死にたい」と思うことは頻繁にあります。
いろんな経験を経て、私は人にストレスを感じるようになりました。
そんな私が、人としてこの世の中で生きているのだから、
当然、この気持ちは無くなりません。
実際に「死にたい」という意味ではありません。
あくまで、「面倒くさいから終わりたい」という気持ちです。
もし、ストレスを感じない方法があれば、死ぬ必要はありません。
ただ、何十年必死に調べても、そんな方法は存在しないのです。
他人に悟られることなく、相手に合わせて対応し、
一人ひっそりと、この感情を押し殺していくしかない。
これからも、そんな意味のない人生を、ただただ繰り返していくのでしょう。
「死にたい」と思ったことがある人は、少なくないと思います。
人によって、とらえ方や程度はそれぞれ違うでしょう。
同じように感じてる皆さんも、きっと本当に「死にたい」わけではなく、
それしか選択肢が無いからだと思います。
いつか、最善の解決策が見つかることを、心から願っています。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
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