他人の事を考えない自己中心的な子供時代
昔の自分は、全くと言っていいほど人の気持ちが理解できなかった。
生まれ育った環境によって、考え方が一般的な人と異なっていた、というのもあるが、そもそも他人を理解しようとしていなかったのだと思う。
自分の気持ちを最優先し、都合が悪くなればその場から逃げる。
子どもとはそういうものだと言われればそれまでだが、それにしても度が過ぎていたと思う。
以前の記事で触れたように、いじめを受けたときも、いじめる側の気持ちを考えようとはせず、
「自分は何も悪くない」「あいつらが異常なんだ」と決めつけ、考えることから逃げていた。
変化のきっかけ
この考え方が変わったのは、「この瞬間から変わった」というような急激なものではなく、
少しずつ段階を踏んで変化していった結果だった。
人は大人になるにつれて、自然とそうなっていく。
確かにそれは事実だと思う。
ただ、自分はその過程を歪ませてしまった。
本来進むはずだったルートから外れ、それがそのまま自分の核になってしまった。
最初の変化は、これも以前の記事で書いた、
いじめの最中に起きた転校だった。
「このままの自分ではいけない」
自分を変えようとする、ほんの小さな変化だった。
この時点では、まだ他人のことを考えられるわけでもなく、
自分の何が悪いのかも理解していなかった。
ただ、「何かがおかしい」「このままではよくない」という感覚だけが芽生え始めていた。
自分の居場所が欲しいと思った
その後、環境は徐々に緩和され、
少人数ではあるが、友達のような存在ができた。
ただ、そこで感じていたのは、
それはあくまで「友達のようなもの」であって、
少し下に見られていたり、仕方なく輪に入れてもらっていたりする立場だったということだ。
その人たちが、本当の友達同士で楽しそうに遊んでいるのを見て、
自分は強い羨ましさを感じていた。
思考の大きな分岐点
そこから、少しずつ他人の気持ちを考えるようになった。
それ以降、学生生活の間、
他人の思考や感情をひたすら分析し、同時に自分自身も見つめ直し続けた。
「普通の人は何を考え、何を感じているのか」
「自分はなぜ人と違うのか」
おそらく学生生活の終盤には、
普通の人と同じか、あるいは少し敏感な程度にはなっていたと思う。
今振り返れば、この辺りでやめておけばよかった。
自分の核となるもの
社会人になってからも、この習慣は続いた。
というより、「やめてはいけない」「人として当然すべきことだ」と感じていた。
なぜ、そんな考え方になったのか。
それは、生活環境や学校生活、自分自身の思考の変化などが複雑に絡み合い、
他人や自分を理解し、考えることで、
「他人に嫌な思いをさせないことこそが正義だ」と感じるようになったからだ。
理由は単純だった。
自分はこれまで、嫌な体験や苦しい思いを何度もしてきた。
泣き、苦しみ続けてきた人生だった。
だから、自分がされて嫌だったことを、他人にはしたくない。
誰かが嫌悪したり、悲しんだりする空間を作りたくない。
それらを「悪」と捉え、
お互いにそうしたものを生み出さないようにすることが、
人間としての常識なのだと考えるようになった。
行き過ぎた共感が生んだ地獄
しかしその結果、人生は良くなるどころか、
まったく別のベクトルの地獄へと向かっていった。
今だからわかることだが、
あの頃から自分は「普通」を通り越し、
行き過ぎたレベルで他人の心を読もうとし、
それに必死で対応しようとする反射が染みついていた。
HSPやエンパス、過剰適応に近い状態が、
自分の中に現れていたのだと思う。
社会人生活を送る中で、それらはさらに悪化し、
他人に合わせて自分を押し殺す、負の循環に陥っていった。
嫌なことを押し付けられ、利用され、
裏では馬鹿にされる。
それでも、この反射は止まらなかった。
むしろ精度を増し、考えるより先に行動が出るようになっていた。
結局、「普通になりたい」と願った自分は、
異常から普通を通り越し、再び異常な状態に辿り着いていたのだ。
なぜやめられなかったのか
「なぜ途中でやめなかったのか」と疑問に思うだろう。
だが、それがどうしてもできなかった。
理由はいくつかあるが、どれも単純だ。
まず、他人を嫌な気持ちにさせたくなかった。
それぞれがそう振る舞うことこそが、本来あるべき平和な形だと考えていた。
さらに、これに反することは、
これまで自分を貶め、嫌悪してきた人間と同じになることだと思っていた。
そして、自分がこれをやめれば、
代わりに苦しむ人が出てくると考えていた。
これができる人間は多くない。
自分だけとは言わないが、極めて少数だと思っていた。
だからこそ、この行動に責任を感じ、
「自分がこの役を引き受けるしかない」と、そう思い込んでいた。
現在と、唯一の願い
今では、少し外に出るだけでも、
たとえ身近な人との会話であっても、
心身ともに強い疲労を感じ、異常が出る。
普通に働くことも、長時間外に出ることも難しい。
未来に希望を見出せず、ただ月日だけが過ぎていく。
自分なりに調べ、考え続けてきたが、
もうどうにもならないところまで来てしまったと悟った。
それでも、ひとつだけ気になっていることがあり、
それが唯一、自分のしたいことでもある。
それは、自分と同じくらいの度合いで、
同じようなことをしてきた人間が他にも存在するのか、
もし存在するなら、その話を聞いてみたい、ということだ。
これは自慢でも傲慢でもない。
これまで、自分と同じような精度や感覚を持つ人を、
一度も見たことがない。
その人はどのような過程を辿り、
今、どのように生活しているのかを知りたい。
もっとも、自分と同じ感覚を持つ人間は、
表に出ることも少なく、行動も慎重であるはずだ。
それが叶うことは、きっとほとんどないのだろう。
これからも自分を押し込み、他人に合わせ、
苦しみながら、さらに精度を増しつつ生きていくのだと思う。

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