重度の基礎疾患に苦しんでいた頃、ある同級生に
「自分も同じ病気だよ」
と言われました。
当時の私には、追い打ちをかけるような言葉に感じたのです。
幼少から続く闘病生活と、終わらない苦しみ
私は、2歳頃から闘病生活を送っていました。
病状はかなり重く、さまざまな病院を回ったり、入院しながら治療を受けたりしていました。
もちろん、それ自体もとても苦しいものでした。
けれど、少し状態が落ち着き、どうにか気をつけながら普通の生活を送り始めても、
困難は終わっていませんでした。
「みんなと同じ」が、どうしてもできなかった
小学校には通えるようになったものの、制限はかなり多くありました。
飲み物や食べ物、運動など、みんなと同じようにとはいきません。
みんなが普通に口にしているものが、私には食べられない。
体育や休み時間に外で元気に体を動かしているのに、私は動けない。
ただ、自分にとっては、これでも“昔に比べれば”制限がゆるくなった方でした。
だからこそ、まだ我慢できていたのです。
けれど、周りの中には、それが我慢できない人もいたのです。
とどめは、何気ない一言だった
食べられない、動けない。
でもそれは、他人から見れば「食べなくていい」「動かなくていい」と映るのでした。
嫌いなものを我慢して食べている子。
苦手だけど我慢して運動している子。
そんな子たちにとって、私は“ずるい子”に見えたのです。
そして、そこからいじめへと発展していきました。
病気が少し良くなってきたと思ったのに
また、苦しい生活が始まるのかと思いました。
特別扱いされてずるい、
病気がうつるから近寄るな
そんな言葉をかけられていました。
私なりに説明はしていたのですが、
聞いてもらえることはほとんどなく、
だんだんと何も言えなくなっていきました。
そんな苦い学校生活を送っていたある日、
同級生のひとりに、こう言われたのです。
「自分も、同じ病気だよ」
その一言で、いじめは加速しました。
その子が言ったことは、きっと嘘ではなかったのでしょう。
でも、その子はみんなと同じものを食べ、同じように運動もできていました。
「じゃあ、おかしいよね」
周りの子たちは、そう思ったのです。
何気ないその一言が、私にとってとどめの一撃になりました。
傷つきからの気づき
こんな病気を抱えて、苦しい思いをして、
なんとか生活してきた。
自分は何も悪くないのに。
こんなに辛いのに。
そう思う反面、
「自分は甘えて逃げているだけなんじゃないか」
そんなふうに考えてしまうこともありました。
ずっとこんな生活をしてきたから、
これが“当たり前”になっていたけど、
もしかすると、それは間違っていたのかもしれない。
そしてこの出来事を通して、私が痛感したのは、
人は、簡単には他人の気持ちを理解できないということ。
共感することは難しい。
簡単に共感してはいけないのかもしれない。
そう感じるようになりました。
見えているものの奥を想像する力
今では、このいじめの件について、
「仕方がなかったこと」だと受け止めています。
誰かが悪いという話ではなく、
あの状況では必然的に起こってしまったことだったのでしょう。
「自分ができないこと」が、
「他人の“しなくていい”」に見えることもある。
「他人の気持ちがわからない」ことも当然で──
それは、自分にも当てはまることです。
私は、そのことを理解し、受け入れるようになりました。
そして今では、
「見えているものの奥に、どんな背景があるのかを考える」
そう答えを出しました。
誰かの幸福は、誰かの不幸かもしれない。
逆に、誰かの不幸が、誰かの幸福につながっていることもある。
「自分もこうだったから、きっとこの人の気持ちがわかる」
そう思っていても、まったく違うこともあります。
自分の価値観だけで、物事を決めつけてしまうのは、とても危険なこと。
それは、混乱や争いを生みかねない。
私はこの経験を通して、
そんなことを学ぶことができました。
まとめ
今回は、私なりの見解でお話ししましたが、
人によっては、違う受け取り方をする方もいるかもしれません。
この記事を読んで、何か感じたこと・思ったことがあれば、
どんな些細なことでも構いませんので、ぜひコメントで教えてください。
この内容が、誰かにとっての「気づき」や「関心を持つきっかけ」になれば、嬉しく思います。
余談
ドラマや映画などの感動作品を観たとき、
私は、あまりにも簡単に共感してしまうのは失礼なのでは…と感じてしまい、
どうしても感情移入しきれないことがあります。
また、リアルでさまざまな経験をしてきたせいか、
作中の展開やセリフに、ふと違和感を覚えることもあります。これは私の“あるある”なのですが、
同じように感じる人、他にもいるのでしょうか?


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